NO.369 無理をするのは可哀そう?

NO.369 本当にそれが正しいのか?
 保護者心得   【自閉】 【LD】 【多動】

 2016年の1月から2月、欧米へスタッフを療育研修に行ってもらった報告の中で、とても気になる記述がありました。

障がいのあるお友達に、無理して文字を教えたり、無理に発語を促したり、無理に社会性を身に付けさせようとする事は、可哀そうという考え方です。

残念ながら国内でも徐々にその気運が高まってきており、成長の芽を摘み取る発想ではないかと警鐘を鳴らしたいと考えます。

このお話をしようか、すまいか…私なりにかなり考えましたが、どうしても見逃すわけにいかず、敢えて今回記事にさせて頂きました。

欧米優位の危うさ…


日本語は、他の言語と違って、音声構造が違います。ですから学習面において欧米の療育方法をそのまま受け売りするのは反対です。

根本的に言語構造が違うのに、同じ土俵で考える必要性はないのです。

英語の記述(書く事)は日本語に比べてもその構造が異なっているのです。

構造が違うのに、欧米の識者が語っているからといって、何でも鵜呑みにする必要はないのです。

そもそも、日本語とその他の言語では、その構造が違うので比較の対象にならないのです。

 アメリカで、著名な某大学の専門家に時間を頂いて、あちこちで意見交換をしてきてもらったのですが、トリソミー(遺伝子の課題・ダウン症等)を持つお友達の、学習支援をする事に対して…「無理な事をさせるのは、可哀そう。」と私達の取り組みや成果に対して、多くの教授達は眉をひそめるものでした。

それは、言語の課題を持つお友達や、多動傾向のお友達等に対しても、そこまでさせるのは「可哀そう。」辛い事はさせないで、楽しい時間を過ごす事が大切…という考え方です。

つまり、別な表現をすれば、指導しても無駄なので、しない方がその子にとって幸せである。

結果、無駄な努力を積み重ねるのは、不利益でしかない。絵をかいたり、ダンスを踊ったり、歌を歌って楽しい時間を過ごす方が有意義である…というものです。

私は、絵を描くなどの創作活動をしたり、ダンスを踊る事や、歌を歌う事を否定しているわけではありません。

余暇としての時間の過ごし方は、楽しいに越したことはありませんが、果たしてそれだけででよいのかというお話です。

「学習指導は可哀そう」という論調が、さもそれが正義たらんとしておりますが、成長の可能性がある限り、その考え方に全く賛同する事は出来ません。

うがった考え方をすれば、成長を促す事が出来ないから諦めているのではともいう意見さえ周りから聞こえてきます。

この可哀そうという考えは、成長の可能性を秘めているお友達にとっては、本当に悪魔のささやきです。

適切な過程をふみ、繰り返し、繰り返し適切な指導を受ける事で、必ず成長が得られるのです。

幼ければ幼い程、成長を獲得しやすく、成人しても諦めず指導し続ければ、成長を促す事は出来るのです。

しかし、効果的に成長が得られる年齢は限られており、その大切な時期に適切な指導を行う事が大切で、生きやすさを獲得するこそ療育支援を行う物の本質的スタンスでなくてはならないと信じます。

考える力は、全ては言語です。
言語無くして、思考は生まれません。

思考が無い世界は、生態的な反応しかないのです。
楽しい、嬉しいだけの世界は必ず悲しみを誘います。

成長して好き、嫌いだけで生きていけるでしょうか?
嫌な事に遭遇し、パニックを起こしても、体が大きくなってきて果たして制御できるでしょうか?

成長の可能性がゼロであれば、無理をさせるのは確かに問題があるのかもしれませんが、成長の可能性があるのであれば、指をくわえている必要性はないのです。

何でも可哀そうというのは大きな間違いではないでしょうか?

ごく一部の研究者を除き、多くの場合、この論調を押すのは、安っぽい受け売りだと断じ得ません。

一人で排便出来ないお友達に、トイレトレーニングをする事も生きやすさを獲得するのも大切な療育支援です。全て学習から得られるのです。

清潔感を教えるのも、恥ずかしさを知るのも全て知識がもとであり、知識の源泉は学びから得られるのです。きれいか?そうでないか?おいしいか?おいしくないかすらわからない…そんな事案もあるのです。知識が全ての鍵なのです。

成人し、保護者が他界した時でも、一人で、買い物に行ったり、食事を作ったりと自立した生活が出来る力を得る事が大切なのではないでしょうか?学ぶ力がなくして果たしてそれは可能なのでしょうか?

ダンスや創作活動も身体能力を高めたり、巧緻性を養うという点では良い事であると思いますが、高い社会性を獲得し、自立した生活を過ごせるように支援する事、88円の商品を購入して、100円支払って、12円のお釣りをもらえる力の方が大切だと感じるのは私だけでしょうか?

正しい方法で、電子レンジで食べ物を温めたり、数字を読み取りレシピ通りに作る力、食後、きちんと後片付け出来るような生きる力は、言語習得にほかなりません。

そして保護者は永遠の命を持っているわけではないという事からも目を背けてはなりません。兄弟、姉妹が四六時中お世話をしなければならない状態にしてはならないと強く確信します。

親族に出来るだけ負担をかけず、出来うる限り楽しい人生を全うする術は学ぶ事からしかえられないのではと考えます。そして出来れば、本質的に自活し、自立出来る事が夢ではないでしょうか?

可哀そうは「諦めなさい…」と私には聞こえます。

このブログの多くの読者の方は、お子様の為に諦めず、あちらこちらを探し続けてこのページをお読みになっておられると思います。

どうか、子ども達の為にも、甘言に惑わされないで下さい。

決して可哀そうではないのです。知らない事こそ、出来ない事こそ、その後大きなストレスとなり、結果的に悲しみを呼び込んでしまうのです。

努力を積み重ね、生きる力、考える力を育む努力を怠らないで下さい。
可能性は、未知数なのですから…

障がいの状態はお友達により本当に様々です。

言葉が操れても、歯が磨けない。
顔を洗う事が出来ない。
御着替えが出来ない。
きちんとご飯が食べれない。
学校に行けない。
準備が苦手…

歯磨きを放置すれば、虫歯らだけになってしまいます。

嗜好に任せて、毎日ジュースを飲み続ければ、その歯は溶けてとがってしまいます。噛むことも出来なくなり、丸のみする事が習慣となれば、肥満に結びつきそして糖尿になったり、高血圧になったり、体調を壊しても、理解ができませんから、自制が出来ず、肝臓を壊し、透析が必要になったり、指や足を切断しなければならなくなったり…

学校に行けず、お友達と過ごす事も難しく、仕事に就く事もできず、保護者が病死してしまった後、部屋から出る事も出来ず、一緒に餓死してしまったような悲劇をこれ以上起こしてはならないのです。

自分の名前も言えず、体調の不良も説明できず、腹膜炎をおこしていても、その激痛を伝える事も、病院に行くことすら考え付く事ができず、治る病で死んでしまうような悲劇をこれ以上見たくはありません。

可哀そう…無理をさせない…一見博愛主義のような、優しさと思いやりに満ちた言葉のように感じてしまいますが、将来のリアルな現実から目をそらす言い訳に聞こえてしまうのは私だけでしょうか?

学ぶ機会を大切にされて下さい。

ニコニコ笑顔で学ぶ子ども達の姿がある事も思い出して頂きたいと思います。

知る事は、楽しいのです。
学びは苦業ではないのです。
楽しく取り組む事が出来るのです。

何度も何度も失敗しても、出来た時の喜びは、お友達の脳内アドレナリンを噴出させる事が出来るのです。

達成感に酔う事、褒められ称賛される事での喜びと達成感を得る事が出来るのです。

知る機会、学ぶ機会をどうぞ大切にお考え下さい。