NO118.はじめに言葉ありき…その2 理解度の違い

一度説明したからといって理解出来る人は僅かです。1回で出来るのは天才か、それまでの経験の中で培った経験を持つ秀才のいずれかで、通例は忘却曲線に従って時間の経過と共に忘れてしまいます。

人は聞いた内容の4割程しか理解できない?

社会に出ると、「1度説明したでしょう。」と部下を叱る人がおられます。職人的な方であったり、僕の学校はと自負できるほどの能力があったり、人材がやたら豊富な組織であったりする場合に、よくみられる光景であろうかと思います。

誰しも難解な内容であればあるほど、多くの場合お話しを聞いているだけでは忘れてしまいますので、有能な方、自分を知っている方は、ノートやメモをしっかりと取られます。

※人の話をノートを取らずに聞いている人はよほどの天才か、やる気のない約束を守らない方です。聞き流していると私自身も判断します。そのような方にいくらアドバイスしても改善されません。何故なら幾らお話ししても忘れてしまうからなのです。

私は毎月100名前後のご父兄に対しての講演会が1回から2回あります。今月も7月6日にありましたし、今度は19日と21日にも教育講演会があります。どなたも熱心に傾聴されるのですが、3ヶ月半年すると、ノートをとられている方が結果を収められる事となります。

大切な話を聞き漏らすまいととられたノートを持つ方がその後の高い成長を獲得されるのです。このブログも1度読んだだけでは通例は理解出来ても身に付きません。多くの事を忘れられてしまいます。繰り返し読まねば、定着は得られません。

※私共の職員も保護者の皆様や関係する先生方、相談員の皆様、関係行政の方々と様々にお話をさせて頂きますが、必ず記録を取っています。いくら優秀な人材でも忘れます。混同し、忘却します。

興味があったり、好きな内容であったりすると比較的少ない回数で理解出来るようになるのですが、その記憶を持続的に維持する事は私達の脳では個体差があり、1回で出来る人もいれば、何度も実践しなければ出来ない人、完全に忘れる人とその能力は様々なのです。

自分が出来るから人が出来ると思わない。

私達大人は、1度聞いた内容を忘れないように、ノートに記録する事ができ、そしてそれを繰り返し読み直す事ができますが、子ども達の場合そうはいきません。

まだノートをとる力もありません。

子ども達の支援も1回言ったからでは習得は難しいのです。

何度も何度も、繰り返し、繰り返し行う事で定着させる事が出来るのです。

数学的な視点に立つと

「人の話の4割論」はどこまで本当なのか若干疑問ですが、その割合を更に下げて、3割しか理解できなかった場合、果たしてどうなるかを考えてみましょう。

100の内容を覚え忘却率は70%、覚えられるのは30%毎回全てをやり直し、実習得内容の30%を覚える事を前提要件として検証してみましょう。
1回目記憶出来たのは全体の30%

2回目 70%忘れた内の30%を理解出来たとすると、それは全体の21%に当たり51%覚えた事になり、2回目でおおよそ半分の理解を示します。

3回目合計51%覚えた内の残り49%の内の30%は14.7%で、全体で66.7%覚えた事になり、この段階での未収得率は、全体の34.3%となります。

4回目で34.3%の30%を理解出来たとすると全体の10.29%を覚えられ、これが全体では76.99%に達します。まだ覚えられないのが全体の23.01%で8割を越えません。

5回目でこの23.01%の30%を理解出来たとして、5回目でおぼえられたのは6.903%でようやく8割越えの83.893%となります。

理論上では、全体からの総量が少なく、覚えていないのは、残り16%少々で多くの場合、6回から7回話を聞けば、たとえ苦手な事であっても習得可能ではないかと推測する事が出来ます。でもこれは、健常な方の場合ではないかと考えられます。

何等かの発達障がいを持つ子どもの場合、この残存率が更に小さい可能性があるとも考えられます。10%あるいは、5%にみたない事も想定できます。

5%しか理解できない場合で、残りに対して常に5%だけ把握できると仮定すれば、10回教えれば40.12%把握する事が可能で、18回目でようやく60%に到達し、32回目で8割を超え、45回目に90%以上の把握ができ、99%を超えるのは90回目となります。

石の上にも3年、1回より100回なのです。

覚えたら忘れないというルールがあってです。でも仮に半分を忘れてしまうとしても、200回300回と繰り返せば、定着させて行く事が可能となると推測できます。

繰り返し指導する事、声掛けする事により、心にしみていくのです。様々に難度のある事であっても、身に付ける事が出来るのです。

これは言語指導だけではなく、生活活動等全て含まれる事であると思います。

発達障がいのあるお友達に、言語を指導するのは間違いのように考える方々がおられます。これらの方は、全くもって繰り返しの効用を本質的に理解されていないのではないでしょうか。

運動等の見地からすれば、1回より100回挑戦すると良いと理解されているようなのですが、回数をこなすには多大な時間がかかるのです。習得するまでの膨大な時間をどこで確保するというのでしょうか?生きていく上で最も大切な言語活動をいつすればよいというのでしょうか?

何故小学生から平仮名なの?

私達は、障がい児のみならず、小学校就学前の3歳児、4歳児、5歳児、6歳児を対象に、本格的な言語指導をおこなっておりますが、その後の進歩も活躍も目をみはるものがあります。母国語だけでなく、あらゆる分野に能力を開花しています。小学校からと言われた先生方が指導された生徒が大学入試レベルの英検準2級に合格された事があるのでしょうか?年長で高校入試レベルの3級に合格できるのでしょうか?私達は教育のプロなのです。幼児期だけをみているわけではありません。広い展望にたって将来必要な能力の開花に全力をかけているのです。

幼稚園指導要綱に明記されているのでしょうか?脳内の発達に関して記述した事がありますが、成長し続けている脳に刺激しなくて、いつ刺激すればよいのでしょうか?小学校まで言葉は教えないという根拠は何なのでしょうか?何等かの科学的検証がなされている事なのでしょうか?論理的にご説明ができるのでしょうか?

全ての知識の前に言葉があります。良い行いも、悪い行いも言語的な理解がなければ、何ら獲得出来ません。自分の意見をきちんと表現できるのでしょうか。能力遅滞が現認されているお友達でも、適切な言語指導があれば、本も読め、日記もかけるのです。自分の意見をまとめ、その日の気付きを自分の言葉で表現できるのです。「今日〇〇して楽しかったです。」のような稚拙な3行文等ではないのです。

「トイレも自分でできないのに、言語指導等全く無意味。」のような事を言われる方がおられたようで、その話を聞いて思わず激怒してしまいました。

トイレは、オムツでも対応できるのです。私の友人は、下肢の問題でオムツをしていましたが、立派に教壇に立っています。8年前に人口肛門を付けてオムツから解放されましたが、オムツしているのがどれほど悪い事なのでしょうか??

生活問題の一部は生活様式も変化し、オムツや、ウォシュレットや、人工肛門等、様々な装具の開発され、成人してからでも徐々に対応できます。しかし人として言語能力なくして、何を得られるというのでしょう。

トイレは行けるにこした事はありませんが、感覚の問題が大きく、尿意便意の間隔も個人差があり、タイミングを把握し、促すチャンスを捉えるまでが簡単に出来る人とそうでない人の差が大きいものです。神経の未発達等で、膀胱に尿が溜まった感覚や、大便をする為に腸が押し出そうとする感覚を掴めるか否かは、神経組織の発達等様々な要件が整ってからのお話しです。無呼吸等で生まれ、大便をするという感覚が理解できるまで、かなりの時間を要したお友達もおりましたが、今では立派な中学生です。神経の発達や伝達問題に関しては、「根性で克服できる事ではない」と考えます。成長と共に獲得する事も山とあると考えます。時間が解決する内容だってあるのです。また旬を逃がすと獲得出来ない事も沢山あるのです。

人間として、人として生きて行くその根源は意志疎通だと思います。意志疎通の根幹は言語習得であり、言語習得なくしては、コミュニケーションの発達も、感情の発達も、人間性の獲得も得られません。

平仮名を理解して何が悪いのか、平仮名が読めて何が悪いとおっしゃるのか全くもって理解できません。沢山の本が読め、知識を吸収できる根源です。トイレに行けなくても立派に社会活動している人材は山ほどおります。言葉の意味を知り、相手がどう感じるかを理解し、相手を思いばかる心が養えるのは言語習得であり、トイレの問題や、食事の問題ではないと考えます。

文字が書ける、手紙が書ける、日記が書ける、自己表現出来る事ほど素晴らしい事はないのです。今しか得られない、今だから柔軟な脳の成長に従って獲得出来る因子が育っているのを根拠なく否定するのは、その子の人間としての尊厳にすらかかわる問題であると考えます。

世界の始まりには言葉があったのです。御言葉は神様の事であり、神様の存在を知り、見識を広め、人として社会に適合するためには、言語理解・言語習得なくして達成できないと断言します。如何にして言語能力を獲得するか、様々なルールや規範を知るのも言語なのです。猛獣使いのように、子ども達を鞭打つのでしょうか?子ども達は動物ではないのです。何故しかれれているのか、何故今静かにしなければならないのか?何故今動いてはならないのか?わからなければ奇声をあげます。駄々をこねます。走り回ります。自傷行為に走ったり、他傷行為に走ったりします。でも言語理解が伴えば多くの事を解決できるのです。

発達の機会を誰であろうと奪ってはならないのです。療育支援を受ける機会を阻害してはならないのです。人道的にも倫理道徳に関わる大問題であり、教育手法が違うからというような、単純な問題で済まされる事ではないと考えます。

母から生まれ、守られ、愛され、慈しみの心を知るのは、言葉の力です。獣とは違います。獣は成長するとゴリラ以外多くの場合は、敵と認識します。本能で行動しています。言葉を理解出来ない事程つらい事はないのです。言葉が理解できないと本能で行動してしまいます。ヘレンケラーの幼い時と同じではないでしょうか?言語理解が伴った時、「水」を知った時から彼女の人生が開花したと確信します。

運動は出来ないより、出来た方が良いと思います。決して運動を否定する立場にはありません、登山をし、水泳をし、ジムにも通っており、行動観察演習も主催しておりますので、反対する立場にはありません。絵画活動も私自身、画家の福原先生の最後の弟子として指導頂いており、巧緻性を含めた創作活動は大切に考えております。

絵画も版画も書道も篆刻に運動も長年取り組んで参りましたし、十数年以上、本格的なご指導を幼少期より頂いておりましたので、それぞれ重要な教育活動であると思いますが、言葉が通じない状態で、話す事がままならない状態の子どもに、書道も絵画も運動も、真似はできますが、理解まで至るかどうかはなはだ疑問です。

意味がわからねば、絵画を鑑賞する事も、模倣し、自分の物のする事は難しいと考えます。これらは嗜みであり、人間として生きていく事に関して必要不可欠な要因ではないと考えます。

どうぞ言葉活動の機会を奪う事なく、子ども達の成長を見守って頂きたいと思います。

言葉こそ全ての始まりです。