NO.342 (重要)指導技術と虐待の違い。

NO.342 (重要)指導技術と虐待の違い。(加筆)
 保護者心得   【自閉】 【LD】 【多動】 【注意欠陥】

 療育支援に取り組む中での、大きな問題の一つに「指導技術か虐待か」という大きな問題があります。今回は、グレーゾーンとしてあまり触れないこの問題について以前書いた記事も絡めながら、考察を深めて参りたいと思います。



私達COMPASSの母体は、NPOもない時代から教育支援を行ってきた関係で、98年から教材販売にも携わり、海外日本人学校のお仕事だけではなく、国内においても小学校だけでも70校の小学校へ出入りさせて頂いております。

「昔の先生は良かったけれど、今の先生は…」と耳にする事がありますが、実際は今の先生達も大変熱心に子ども達の教育に取り組まれており、小学校の電気が20時前に消えている所はほぼないのが実情です。

先生達が懸命に取り組んでいらっしゃるのに、どうして現場が荒れているのでしょうか?

先生達が夜遅くまで取り組んでいらっしゃるのは、「生活指導」の為に奔走されておられるのです。地域によっては昔より過酷な学校現場となっているのですが、それは何故でしょうか?

誤った認識の「自由」と、耳ざわりの良い曲がってしまった「権利」が子ども達を正しい方向に導きにくくなったと嘆く先生方も沢山いらっしゃいます。

様々な問題がありますが、こんな一コマが現実にあるのはごぞんじでしょうか?

ある天気の良い参観日、授業中おもむろに立ち上がったお友達がドアに進み、「先生行ってきます。」担任の先生も笑顔で「いってらっしゃい。」お友達は悠然と教室から外に遊びにでます。20分程たって、お友達が「ただいま。」と教室に入り、先生は「お帰りなさい。」何事もなかったかのように、お友達は教室を少しうろついて席に戻る…

こんな事は昔あったでしょうか?

あるクラスでは、数人のお友達が教室をウロウロし、勝手にしゃべり、授業を妨害し、全く授業にはなりません。

担任の先生は、間違った認識の保護者から「虐待」と言われるのが怖くて厳しく叱れなかったのです。

本来の指導が出来なかった、させて貰えなかったのです。

私達も「虐待」に関して様々な研修を受けたり、講師として著名な先生方を招いたりいたしますが、大きな声で叱ると問題なのか、どんな事が虐待で、そうでないのか判然とした答えは正式には頂けません。

「訴えられる」か「訴えられないか」の違いであると、小声で示唆された先生もおられ、とても曖昧な状態です。殴りつけるのは問題というのはわかりますが、その線引きはとてもグレーゾーンの中にあります。

本人や、保護者と人間関係が出来ているか、出来ていないか。

信頼関係があるのか、ないのかでも異なっているのが実情です。

信じられないでしょうが、出歩くお友達を制止するのに、ドアに鍵をかけると「虐待だ」と言われる方もおられます。

掻き毟る両手を抑えたら「虐待だ」と言う方もおられます。ですので迂闊に手を抑える事も躊躇してしまいます。

仕事を教えるために、資質を伸ばす為に叱咤激励された社員がパワハラと訴えるケースとよく似ています。本人がどう感じたかによるのだそうです。何と曖昧なものでしょう。

中には本当に、酷い扱いをされ、尊厳を踏みにじられたりというような場合は、パワハラだと思いますが、感じ方の違いで、糾弾されるのには疑義を感じておられる方も沢山いらっしゃると思います。

障がいの問題を克服しようとする場合、ご本人が人間関係の樹立が出来る能力のあるお友達であればよいのですが、まだ考える事も未熟で、知識も乏しく人間関係を上手く築くスキルもなく、理解が困難なお友達もおられるのも現実で、物事の本質を見極めない限りこの問題は解決できないのではないでしょうか。

療育支援の本質は何をなすか、何を獲得するかであり、過剰な虐待判断は、その目的からそれはじめ、本来の本質を見失わせてしまい、療育支援の障がいになってしまっているのではと考える方々もおられ、私達支援者や、お子様の成長を願う保護者はその点を見誤ってはならないのです。


生物学的な見地から考察すると、何が大切なのか理解する事が可能です。

私の家には猫がおりますが、幼い子猫は力の加減がわかりません。猫科の動物は、強く咬まれたら、親猫は、咬み返す事で力の加減を教えます。

気に入らない事があると、奇声をあげるお友達がよくおられます。私は奇声に対しては、奇声で応えます。子どもの奇声です。大人の私の肺活量に敵うわけわけはありません。

驚き、怯み、そして静かになります。奇声をあげてもどうしようもない事を理解した瞬間に無駄な抵抗をやめて、静かに指示に従えるようになります。

前回のCOMPASS川崎の個人面談の最終日の事ですが、お母様とお話している間中、泣き叫んで奇声をあげているお友達がおられました。厳しく諭し、どの職員もご機嫌をとる事をせず、お母様にも無視をお願いし、我慢して頂いておりましたら、ぐずり出して1時間50分を過ぎたとき、はたと別人と思えるような素直な態度行動になり、どの先生の指示にも従えるようになられました。帰るときには勿論ニコニコで、憑き物がとれたようになられ、その変化に驚いておられました。

大声を出せば、大声で、動き回れば、制止し、泣いても、騒いでも、一歩もひかず、一歩たりともひるまず、妥協しめさなければ、落ちるのです。我がままの鎧を脱ぎ捨てるのです。

泣くのを見るのは私達も辛いのですが、ずっと我がままで、指示が通らぬままで良いのでしょうか?時間が解決するのでしょうか?放置して未来はあるのでしょうか?成長すれば解決するのでしょうか?

30年前、私達の始まりは、不登校、家庭内暴力の為の教育支援でした。単に、学校が面白くない、反抗心が抗しての問題であれば、簡単でしたが、自分の嗜好で、自分勝手な判断しかできず、2次障がい、3次障がいを引き起こし、親に暴力を振るう悲劇を山のように見てきました。

暴力だけならよいのですが、薬漬けになったり、措置入院となったり、統合失調症になったり、果ては自殺においこまれるような地獄を私は知っています。

子どもの気持ちを大切にするのは、悪い事ではありませんが、思慮のない甘やかしはその後に破壊的な結果をもたらすのです。

私達は、幼児期だけをみているわけではありません。その子の将来を見つめているのですが、多くの人は、今さえよければ、今静かにしてくれれば、この場を収めればという事で間違った援助を行い、結果的に社会適合もできず、悲しい結果へと進んでしまうのです。

ご兄弟がおられる場合、場合によっては、ご兄弟が成人する時に多大なしわ寄せが来てしまいます。結婚も困難となられている事例も少なくありませんし、その世話で定職に就く事すら出来ないケースもあるのです。

今解決しなければならないのです。好き勝手させるのではなく、ポジショニングが整い、指示が通るようになれば、知識や社会性を吸収し、自立する事ができるのです。

今泣き叫び、奇声をあげているのを止めるために、決して妥協してはならないのです

妥協すれば、あまいと判断し、その後の支援に支障をきたしてしまうのです。無く姿をみるのは誰しも辛いのですが、ここで心を鬼にする事で、かけがえのない物を得る事が出来るとかんがえておりますが…

これは虐待でしょうか?

私は小学校の先生に対しての指導もした事があります。生徒が騒ぎ、ウロウロし学級崩壊しているクラスに、体の大きな、鬼の形相の先生が入るとどうなると思われますか?

誰も逆らわず、騒ぐことなく、ウロウロする事もなく静かに授業を受ける事が可能なのです。畏怖の気持ちが、どうなるかわからないという気持ちが静寂を生むのです。

大声でどなる事も指導技術ととらえれば、大切なスキルです。これは恫喝でしょうか?一喝する事で、誤った方向を正す事も出来るのです。私は隣の部屋で、どなって脅す真似をする事があります。大きな声で誰かを怒ったフリをするのです。隣から部屋に戻ると、同じ目に誰しもあいたくないので、あっさり指示が通る事もあります。これは一つの指導技術だとう考えますが、如何でしょう?

西洋のある国を統治する領主の話があります。

やさしい領主は、皆に理解があり盗みをしても、まじめに働かなくても、やさしく促すだけで許してくれます。

隣の領主はとても恐ろしい人で、盗みをすればその手を切り落とし、恐怖の存在として周りから恐れられています。

20年後どうなったでしょうか?何をしてもやさしく接する領主の村では盗みが増え、まじめに働かず、コントロールが利かなくなり荒れ果てた村と化してしまうのです。でも厳しい対応の村は、安全安心して暮らせるためその後も繁栄を続けるのです。

やりすぎは不幸を呼び込みます。厳しさも行き過ぎれば虐待であると思いますが、やさしさだけでは物事は成り立たないのです。

昔スパルタ教育というものがもてはやされた時期がありました。今もそれを実践している私学もあり高い成果をあげているのも現実です。

スポーツでも、強豪チームはやさしさだけで、その座を得たとお考えでしょうか?やさしさは甘い甘美な物で私も好きですが、自分の立ち位置を知らず、先生の指示が通らない子ども達に、やさしさでけで対応していくと、将来悲しい結果が待っているだけなのです。

厳しいといっても、考えさせ、促す事が大切であり、規律やルールを守る事においての問題で、奇声を上げるお友達にたいして、ただ静かにやさしく接するだけでは、獲得する物は果てしなく遠のいてしまうのは自明の理であると考えます。

厳しく叱るという事と、「馬鹿」とか、「デブ」とか、「チビ」とか言うことは根本的に違います。「馬鹿」等と言うのは人格否定ですので、断罪されても構わないと思いますが、激をとばすのは、指導技術の一つなのです。

何をなさねば為らないのか、読者の皆様には、もう一度よくお考え頂ければと思います。

以下に今まで書き記した関連記事を掲載しておきます。

今回は、長文となりましたが、どうぞ誤った判断をなさらないで下さい。


NO41.おしくら饅頭で勝ちましょう
おしくらまんじゅう(押し競饅頭)で勝ちましょう

療育支援にあたって、お子様と保護者並びに、療育支援者それぞれのポジショニングが大切です。平たく申し上げると立ち位置の問題です。言語発達が遅れている場合に良く見かけますのがお子様が偉い存在になってしまっている事があげられます。

従って、その子の気分次第で、必要な取組みや指示に従わないという事になってしまいます。療育室に入るのを嫌がる、椅子に座ることを嫌がる、課題に取り組む事に嫌がられ大切な療育の機会を自ら喪失してしまうような事例を散見致しております。

何をしても、食事が与えられ、嫌な事は奇声を発したり、泣いたり、むずかったりしていて自分の意思を押し通す事を覚えてしまうと、とにかく嫌な事に出会うと泣き叫んで周りを困らせるという行動にでてしまいます。悪い事をしてもペナルティーが無いのでやりたい放題で、逆に機嫌をとってくれるので、反応すればするほど、子ども達からすると、意思の獲得行為に繋がりコントロールがききません。

毅然とした態度が必要です。

子どもと真剣な押し競饅頭(おしくらまんじゅう)をしなければなりません。

その子を庇護する保護者がその押し競饅頭(おしくらまんじゅう)に負けてはならないのです。支配するわけではありませんが、大切なお子様を正しい道に導く為には、先生と生徒、師匠と弟子のようなはっきりとした上下関係が樹立が大切です。

保護者がお子様のお友達であってはならないのです。やさしいお母さん、お父さんであることは間違いではありませんが、保護者としての毅然とした対応と、正しい立ち位置が明確にならなければ、指導するにあたって大変な障壁となります。

やさしいけれど、厳しくなければ正しい親子関係とは言えないとご理解下さい。

子どもの好きなようにさせるなどと馬鹿な事をおっしゃるのはおやめ下さい。それば保護者としての管理責任を放棄したと同じくらい重大な愚行であります。好きなようにさせていては進歩すべき事も、成長すべき事も獲得する事は不可能です。

この子は、お菓子しか食べなくて…と馬鹿な事をおっしゃる方がたまにおられます。保護者としてその愚行は管理責任放棄であり、親の怠慢であると考えます。偏った食事をしていれば、必ず体に変調をきたしてしまう事は周知の事実でありながら、偏食する事を了承するのは断じてしてはならない事です。これはあくまで1例ですが、子供との押し競饅頭(おしくらまんじゅう)に負けているのです。

面倒な事をする客がいるから、目をつむっているのと同じです。臭い物には蓋的な陳腐な発想です。

お菓子しか食べないと言われていて、私達がたった1日お預かするだけで、何でも食べる良い子に変身します。
簡単なお話で、お菓子があるから食べるのです。お菓子がなければ、おにぎりしか食べる物がなければ、食べるのです。泣いても、わめいても、奇声をあげても、ねだっても、あまえてきても、お漏らしをしても、脱糞しても態度を変えす、どなったり、しかったりしなくても、ちょっと魔法をかければ、変身できるのです。

泣きわめくから、静かにさせたいから、与えてしまっているのです。
うるさいから黙らせている行為と同じです。
面倒だからお菓子を与える。
これこそ怠慢でなくてなんでしょうか??????????

向き合って下さい。戦って下さい。押し競饅頭(おしくらまんじゅう)で負けないで下さい。

これは1つの事例ですが、家庭生活の中において、言葉は遅れていても、物事の通りがまだわかっていなくても、様々な駆け引きを行っており、ほぼ全敗しているのが偏食に繋がったり、極度の多動に繋がったり、粗暴な態度に繋がったりするのです。

私は子供に出会った時から魔法をかけます。誰がリーダーかを教えます。誰の指示に従わなければならないかを様々な取組みの中で体得させます。言葉も基本的に不要なのです。
譲らない態度と行動が大切なのです。

本日もようやく、「ありがとう」とお礼を言う事を体得したお友達がおります。「ごめんなさい」を知らないお友達もおられます。謝る事そのものを知らないのです。しかし社会生活をしていく上では必要不可欠な要素であり、理解しなければ先にすすめません。

諦めないとよく、申し上げますが、繰り返し理解出来るまで取り組むべきなのです。何百回かかっても、何か月かかっても毎日諦めず取り組むべきなのです。他のお友達の様子をみて焦らない事も大切です。簡単に出来る事でも途方もなく時間を要する事が沢山あるのです。

駄目な事は駄目と子どもに押し切られない事が重要です。
奇声をあげれば、奇声をあげる事そのものが、迷惑で誰しもが嫌がる事である事をしらさなければ、永遠にその繰り返しが続くのです。恥ずべき行為を恥ずかしいと思わせる支援が必要なのです。教え導き体験的に理解させていけば必ず通じます。ちょっと魔法をかけておけば突然通じるのです。

社会適合しない事を容認してはならないのです。ダブルスタンダードが通じるのはご家庭や施設内のみであり、一歩外にでるとそのような甘えた行動は許されないのです。

いつか保護者の庇護からはすれてしまいます。一人で自立出来るように支援しなければ結局困るのは大切なお子様なのです。

立ち位置が重要なのです。してもらっても当たり前と思われる中での介助も、してもらってありがとうと考えるのとでは自ずと成果にも差異が生じます。

うろうろして椅子に座れなくても、勉強が出来て、就職できて、家庭が持てるのであれば文句はありませんが、実生活ではそんな事はゆるされないのですから、そこを許すべきではないのです。

平時私共の施設内での指導も、指導スタッフの指示に従えず、毎回おしくらまんじゅうを挑んでくるお友達もおりますが、私がトレーニングルームに近づく足音がしただけで、きちんと指示が通るようになります。それは畏敬の念を持っているからです。私が許さない事を知っているからです。無駄な行動は基本的に子ども達はしません。駄目なものは駄目だと知っているのです。言語習得が遅く、理解がまだ不十分であっても同様です。駄目なものは駄目で、わがままが通じない人であると認識すれば、さっさと諦めて指示に従う事が出来るのです。そしてそれらの挙動をきっかけとして多くの先生の指示にも従い、保護者の指示に従う事が出来るようになれば、より多くの事を学び、体得し進歩と成長を獲得する事が出来るのです。

母親は最大の理解者で、一番愛してくれる人ですが、山のように動かない存在でなければなりません。これを放置しておくとどんな事になるとお考えでしょうか?

大きくなったら、理解出来るでしょうか?大人になったらわかるのでしょうか?放置すれば周りから疎まれ、人を恨み、人を愛せなくなったり、殻に閉じこもり、卑屈になったり、奇行にでたり、更に周りの理解がえられず、孤立し、心を病んでしまったり、幻聴や幻覚を見たりして普通の社会生活が送れなくなってしまう可能性が非常に高いのです。最後はとても悲しい結果しか導き出せないのです。時間がたっても奇跡は起きないのです。努力なくして進歩は得られないのです。

本気で向き合って下さい。本気で向き合うと子どもの態度は変わります。理解しようと努力するようにもなります。そして獲得したちょっとした進歩が、大きな一歩に変わり、そしてその子の人生を劇的に変化させる事が出来るのです。

大きくなったら何とかなりません。対峙するのは今なのです。奇跡を起こすのは今しかありません。

家族全員でおしくらまんじゅうに挑戦して下さい。

NO92.ボス猿で在る事…
ボス猿で在る事…

前回ポジショニングの大切さとして、「おしくらまんじゅう(押し競饅頭)で勝ちましょう」で、保護者や指導者の立ち位置に関してお伝え致しました所、接し方を変えてから大きな変化が見られたとの沢山のメールを頂きました。今回は、立ち位置が確保されたとしての、理想的な支援者としての在り方をお伝えしたいと思います。

ボス猿で在る事…というと何やら野蛮な感じが致しますが、実はボス猿程周りに目配せをしている存在はいないのです。ボスであり続ける事、ボスとして存在し続ける事、絶対の庇護者として在り続ける事が、支援を必要とする子ども達に最も重要な存在となります。


ボスですから、先に食べるのはボス猿です。子育てでの間違いで最も多いのは食事の順番です。食事は、生命の根源をつかさどる重要な要素で、最も精神の根幹に浸透しやすい慣習です。あえて教えなくても、その序列が明確となります。

祖父母も一緒に暮らしているご家庭の場合、昔であれば、お爺さん、おばあさん、お父さん、お母さん、兄弟、そして本人という流で、食事が順番に出されます。基本的な序列が、お茶碗にご飯をつぐ順番であったと思います。一番力のある者から食べるというのは、自然の摂理です。

現在、生活習慣も変わり、仕事の関係で、父親不在であったりすると、まず出来た物を一番最初に食べるのがお子様からとなり、勘違いが起こるのです。そうですこれが、ポジショニングの誤解です。

誤解をするから、指示が通らないのです。保護者のいう事を聞かないのです。

動物には、基本的に言語活動はありませんから、食事を与え、世話をしてくれる親の指示に従います。言葉はいらないのです。絶対的な庇護者であるので、自分で食べ物を獲得出来るようになるまでは親の指示に従っているのです。人間も成長すれば成長するほど自我も芽生え、嗜好も異なり、独り立ちするようになりますが、自分で生活できる(食べて行く事)が出来なければ自立出来ません。親のやっかいになっているのであれば、通例は親の指示に従います。嘗て沢山のひきこもりや、家庭内暴力の支援を行って参りましたが、私の経験では、何をしても食べさせてもらえる環境を変えなければ自立の道へは進めません。いくら知性があっても進展しません。

初段、私が教室でおやつをあげる時、適切な立場の樹立が出来ていない場合は、最初に私がおやつを食べて見せます。絶対に最初に子どもへ配るような事は致しません。私が食べて、補助の先生が食べて、親子通所で保護者が同席なら、保護者にあげて、そして最後にお友達にあげるようにしています。(関係樹立出来るまで)

ボス猿は教室では私なのです。「先生がここで一番力を持っている」という事を行動で理解させています。ですから先生の指示は絶対なのです。ですから他の先生も私の指示に従ってもらっています。これが基本条件なのです。お友達の前で、私の指示を先生がきかない所を見せると子どもは混乱するので、絶対にそんな事のないようにしています。何かあったら、子ども達のいない所で話し合いをし混乱を招く様子は見せません。

ご家庭では、まず保護者、父親、母親、兄弟、そして本人、勿論祖父母がいる場合は祖父母から食事を出して頂きます。これらの順番が畏敬の念に繋がったり、目上を敬う気持ちに繋がったりもします。

モデリングでの所でもふれましたが、指示が通らないお友達に、きちんと指示が通る子ども達の様子を意図的に見せる事もしております。COMPASSは平日の指導ですので、わざわざ土曜日の幼児教室に参加して頂いてボス猿の力を見せる事によりそれまで、駄々をこねていたお友達が、きちんと先生の指示に従うように変貌しているのです。

自分よりも、年上のお友達が、きちんと椅子に座って先生の指示に従い課題に取り組む様子を何度も見せると、それが当たり前となり、先生のいう事が絶対となるのです。

ご家庭での序列をはっきりとさせて下さい。甘い甘いお父さんや、祖父母が一緒の場合もありますが、きちんと役割分担を決めて下さい。やさしく接するのと、甘やかすのは違うのです。社会に適合できる力を養うためには甘やかしていては駄目なのです。ボスはボスらしく、大人は大人の目線で、対峙して下さい。

やさしくするのと、機嫌をとるのも違います。機嫌をとっていては、指示は通りません。嫌な事がある度に泣き出します。本当にお子様が可愛いのでしたら、ご家庭でもそれぞれの役割分担を明確にして接するようにお願い致します。

NO16.畏怖の心
NO16.支援に必要な、「畏怖の心」とは

療育支援には、支援者と児童との間に絶大な信頼関係が誰しもが必要であると考えているとは思いますが、愛情だけで正しい支援は難しいと考えております。

言語発達が遅れていたり、すると本人が思っている意思を相手に正しく伝えることが出来ず、奇声を発するなど、泣き叫ぶ様子をよく目にします。多くの保護者は兎に角、泣き叫ぶのをやめさせようと、機嫌をとったり、思うようにさせていますが、果たしてそのような対応でその後、それらの問題を解決する事ができるのでしょうか?

それは多くの場合、問題を先送りにしてしまう行動にほかなりません。思うように行動させると、結果的にその子どもからすると、泣くことで、自分の意思を通した事になり、問題が発生するたびに同じ行動を繰り返す事となります。

勿論、言語が遅ければ、言語獲得のための療育支援は計画的に施す必要はありますが、その前に潜在適な人間関係の樹立が大切であると私達は考えております。ADDのお友達や、AD/HDなどの特性を持つお友達に正しい躾や行儀作法を身につけるのも同様で、本人の思うような行動にまかせていては、何ら解決は致しません。

多くの場合、子ども達はその家の王様であったり、お姫様であったりしており、何事も最優先されているのですが、果たして本来の教育スタンスからしてそのような立ち位置であることが正し接し方なのでしょうか???

まず、誰が食事を与え、誰が入浴させ、お世話をしているのは誰であるのかを正しく理解する必要性があります。食事を最優先で与えたりするのは最もおろかな行動であるといわざるを得ません。おやつなどもそうですが、クラスの指導でもそうですが、子ども達に一番に与えるのは最も駄目な指導者であると私達は規定しております。

順番が違うのです。本来家庭であれば、祖父、祖母、父、母、兄、姉、本人、弟、妹でなければならないのです、優先順位が違うと立場を勘違いしていしまいます。

よく、「子どもが言うことを聞かないんです。」というお話を伺いますが、それは別な見方をすると、「私の事を軽く見ています。」というのと同じです。何度言っても許してもらえるから、正しい行いが出来ないんです。というのと同じです。

人間が生きていく中で、根底的に力の差というものがあります。弱い者は強い者に従わなくては生きていけないという根本原理です。庇護されている事を理解知らせるべきです。何をしても良いというような関係を改善するべきなのです。

私達は立場上、子どもと対峙した場合、絶対に引き下がりません。基本的に私達のコントロール下におくことが出来るように十分な配慮を行います。立場は私達が絶対的に上の立ち位置を確保し、指示に従うことが出来るような関係つくりを行います。

やさしいだけでは、正しい関係はなりたちません。皆さんも経験があると思いますが、学校にいた怖い先生の言うことはみんな一応に指示に従っていたと思います。それは指示を守らないととんでもないことになるという基本的な原理原則が働いていたからです。

子ども達に対して愛情は勿論必要ですが、尊敬の念も必要なのです。尊敬に至る前にあるのが、畏怖の念であり、畏敬の念です。ここで勘違いをしてほしくはないのですが、怖い=暴力を振るうという構図ではその関係はすぐに破錠します。この先生の指示は絶対に守らないといけないという思いが、療育指導の中での強い推進力となります。

畏怖・畏敬の念は、きちんと魔法をかければ、どんな子ども達であっても抱くことが出来るのです。そのためには、計算されたシチュエーション作りや、保護者、指導者同士の連携も含めた、基礎規定が大切であり、それが整うと格段に子ども達の進歩していくスピードに変化が出てきます。

どうして私達で指導をすると、見違えるような態度や行動規範が身につくのでしょうか?今年も小学校受験に発達障がいを抱えていた子ども達が合格しておりますが、きちんとした態度行動がとれなければ、とても合格などは出来ないのです。自分勝手な行動などはしていないのです。

今年も来年の1月10日の福岡教育大学附属小学校の入試があります。昨年も、一昨年も同様で試験の当日は朝8時にはスタートし、午前中にはペーパーテスト、巧緻性の試験と口頭試問、昼食をはさんで、行動観察があるのですが、行動観察が何時に始まるかは受験番号次第で、すぐに試験に臨めるお友達もいれは、最長2時間待って、1時間かけて検査を受けることとなります。

子ども達は全員体育館で、椅子に座って待つのですが、2時間待たされるのは大人であっても非常にきついのですが、私どもが指導している全ての子ども達は、静かに2時間待つことができます。沢山の子ども達がざわつき、おしゃべりをはじめ、立ったり、勝手に歩き出したり、騒ぎ始めるのですが、私が指導をした子ども達は一切動くことがありません。

保護者は後ろから椅子に座って待っている様子を見ることが出来るのですが、私の生徒のグループだけ微動だにしませんので、その様子の違いははっきりみてとれたと例年報告があります。子ども達の価値観そのものも大きく変化して結果であるのですが、正しい価値観を身につけるための最初は畏怖畏敬の念の創出から始まるのです。

昨年も、一昨年も、療育手帳を持っていた子ども達が合格しているのです。それまで多動性だといわれていた子ども達が朝から、夕方まで誰よりもキチンと行動し合格を勝ち取っているのです。私と子ども達の関係は絶対の関係であり、その根底には強い畏怖の念があり、畏怖から畏敬の念にそして、尊敬の念に進歩していくのです。

暴れん坊が、幼稚園や保育園で1番行儀のよいお友達に成長する事ができるのです。どうぞコンパスにおいでください。正しい接し方をお伝えします。正しい親子関係をの樹立をはかります。正しい関係がなくして
円滑な療育指導は出来ません。

私どものセンターには複数の指導者がおりますが、どの指導者であってもきちんとその療育指導に臨む事ができているのは、それぞれの心に対してのテコとなる魔法をかけているからです。くれぐれもその場しのぎの対処療法だけはしないように心がけて下さい。

まずは、お母さんの指示が通るような接し方を行ってください。どうして良いかわからない方は、どうか私達のセンターへご相談においで下さい