NO43.認識の違い(言語) その2

認識の違い(言語指導を事例として) その2

施設により、障がいに対しての認識や、支援方法、目指す到達レベルも全く考え方が異なっているという事をご理解下さい。子ども達をよくしたいという方向性は同じなのですが、仏教とキリスト教のように、理念も取り組み方も全く違うのです。

仏教の中にも、浄土真宗や、日蓮宗があったり、キリスト教にもカトリックがあったり、プロテスタントがあったりするのと似ています。良くしよう、正しい道に進もうという根幹は同じでも、信じる対象が違ったり、考え方が事なるという事と似ていると思います。(信仰により道徳心と正しい価値観の上での違いで事例として記載しましたが、それ以上の他意はございませんのでご容赦下さい。)

療育に携わる多くの方々は、どなたも子ども達のよりよい未来、保護者の笑顔を求めて取り組んでいると信じております。ただ目指す方向や、取り組み方、到達点にそれぞれ際があるという事をご理解頂きたいと思います。

身体能力の向上が第1義と考えておられる施設もありますし、社会性を獲得する事が第1義と考えられている施設もあります。私どものように、言語習得が第1義ととらえている施設もあれば、何をさしおいても子供の意向を大切に見守る事が第1義とお考えの施設もあるという事です。

そしてその目標に対して、どのような取組み方を行うのかも大きな違いがあります。風邪を治すという目的は一緒でも、ワクチンで治すのか、投薬で治すのか、発汗を促して治すのか、食事療法で治すのか、自然治癒で治すのか、鍼灸で治すのかそれぞれ手法が異なるのです。

状態認知の差異も大きな差となってしまいます。お子様の症状をどのように解釈するかの違いで、大丈夫と感じるのか、大変な状態であると考えるのか同じ手法をとっていても、状態認知の違いは取り組み方の違いにつながります。転んで怪我をして、泣いている子供を見て、「それくらい唾をつければ治るから大丈夫。」と認識するのか、「赤チンをつけるなどすぐ手当しましょう。」と認識するのか、「すぐに消毒して止血しよう。」と認識するのか、「頭を打ってないか、ほかに怪我をしていないか、すぐに病院に連れて行って検査しよう。」と認識するのか、「大丈夫かもしれないけれど、わからないからしばらく様子を見よう。」と認識するのか、「面倒だから、とりあえずあやして泣きやまそう。」と認識するのか、「すぐに保護者に連絡をして指示を仰ごう。」と認識するのか、「転んだ原因をすぐに究明しよう。」と認識するのかくらいの差があるとご理解下さい。

状態認知の段階でも既に差がありますので、実際の対応には更に大きな差異が生まれる事となります。症状に対してだけでもこれだけの違いがありますので、実際の対応には更に大きな違いがあるとご理解頂きたいと思います。

言語遅滞を事例としてご説明しますと、発語が少なく、意思疎通ができなかったりで、知能検査も言語理解が出来ない為に非常に低い数値しか得られないような場合、対象となるお友達は、動き回りながら、1人で遊ぶか、1人でボーっと周りの様子を静観するか、お友達とはなじめず、大人とばかりと過ごす等というような事がみられたとします。

そのような状況を指導にあたる先生に相談された場合、「●●の訓練をしましょう。」と考えるのか、「細かに検査しましょう。」とすぐに具体的な対応手段を講じるのか、後者として経過観察として、「しばらく様子を見ましょう。」とか「無理をせず頑張りましょう。」とか言われる事があります。

前者は何をするべきか判断がすぐに出来るケースで、骨折したから、ギブスを付けましょう。レントゲンを撮りましょうという具体的対処方法を明確にもっておられる場合で、後者のように経過観察をされる場合は、どのような対処法がよいのか判別がついてない場合、一時的で自然治癒する可能性が少しでもある場合と、どうしてよいか対応手段を持ち合わされていない場合であると考えられます。盲腸であると診断がついても、離島で手術設備がない場合は、状態が落ち着くのを願って経過をみるか、救援を待つか、移送させるしか方法がないのと同様です。

上記の事例を更に考えれば、年齢が上がれば、心身の発達と共に何とかなるであろうという希望的観測である場合か、何かのきっかけで理解が出来るようになったり、その内発語できるかもと楽観的思考である場合か、これ以上はその子には出来ないと諦めておられるか、具体的対応手段を持たれていないか、就学後、特別支援校で何とかして頂けるのではとお考えであるような事も推察できます。

言語遅滞に対して、具体的取組みとして、そのレベルに対して、適切な言語指導をしようとされれば、自ずと接し方も、課題の在り方も、指導の仕方も違う種類であるとご理解頂けると思います。手段があれば、少しでも発語が獲得出来るような取り組みがなされるはずであると認識して下さい。その場合は、1ヶ月後、3ヶ月後、半年後、1年後どのように進歩させる事を目指すのかお話し頂けるのではないかと思います。問題の障がいに対してはっきりとした取り組みの指針が明示されるはずです。

骨折をして病院に行くと、ボルトを入れる手術をして、2か月位するとギブスがとれるので、それからリハビリすれば、半年もすると全快できますよ…のようなアドバイスが頂けます。具体的な取組みが行われる場合は、その後の予定がおおよそ推測できるのが通例です。たまに、この手術をして成功は五分五分等というような事を言われるようなシーンが実生活でもテレビ等でもありますが。成功した場合はこれくらいの期間でこうなるという予想が明言されるのと同じ事です。

言語の場合は、お子様の素養により直ぐに出来る事もあれば、定着したり、理解するまでに、予定より大幅に時間を必要とする事もありますが、指導を続けていけば一歩づつであっても確実に進歩と成長を獲得する事が出来るのです。一番怖いのは、治る可能性があったのに、経過観察が長くなって、癌が転移して重篤になるような事は絶対に避けなければならない

誤った治療をしたら、体に悪いので、投薬を控えるというのは理解できますが、言語トレーニングを行っても毒にはなりません。悪影響は出ないはずなのに何故経過観察する必要性があるのかも理解が難しい所となります。現段階でトレーニングさればいのは、何故でしょう?プラスにはなってもマイナスにならない活動であれば問題ないはずなのです。読者の皆様はどうお考えになりますか?

言語指導が必要であるのに、お友達と遊んでばかりいては解決出来る問題であっても、解決する可能性が限りなく小さくなってしまうのであるとご理解下さい。結果の先送り、根拠のない支援成果に対しての見通しかは担当の先生から詳しくご説明を伺って判断頂く事が大切であると思います。

その3に続きます。